【長女の青年後期(高校生)重度の副腎疲労、脳のシステム障害大幅改善】
次女のアトピー・頭痛・起立性調節障害寛解を経て、最重度の副腎疲労の長女の経緯を綴っています。
前回のブログ、【長女の青年前期(中学生)】はこちら。
https://counseling-amoretto.com/blog/1673/
娘達の症状の経緯が、希望になることを願います。
体と心でお悩みの方、お気軽にご相談くださいね。
川本療法をスタートさせて丸2年が経過しました。
心身ともに健康を感じられるようになってきた大学4年生の長女の言葉。
『心が穏やかで毎日いいことばかり。
これが普通の人なの?
健康って素晴らしいね!』
長女の口からこんな言葉が出てくるなんて、以前は夢のまた夢でした。
以前は低体温で35.6℃程度しかありませんでしたが、いつの間にか36.6℃まで上がっています。
約2年で1℃の体温アップ、若さが助けになってるところもあると思いますが、川本療法を続けたからに他なりません。
少々のことでは心が波立たなくなり、毎日のように笑い声が聴こえてくるようになりました。
家族の生活は変わっていません。
変わったのは長女の心と体です。
そして、もう一つ明らかに変わったのは、夫や次女の長女に対する理解です。
もちろん私も含めて。
治るには、『治る環境が自宅の中にある』ことが重要であり、ここを避けては通れませんでした。
例え入院したとしても、自宅に帰って再発では目も当てられませんから。
幸せを噛み締めている長女の高校時代。
母親だから見えること、母親だからこそ見えていなかったことがあった高校3年間。
本来なら青春そのもののこの時期。
彼女も私も、見守る家族も生きることに一生懸命でした。
電車とバスを乗り継いでの約1時間の通学。
高校入学してすぐに過敏性腸症候群とパニック障害のような症状が出ていました。
長女は、毎朝の電車移動ができなくなりました。
3駅目あたりで息苦しくなり、腹痛がおき途中下車するということが続きました。
そのため、電車移動は諦め、ほぼ毎朝車で送っていきました。
パニック障害は脳の制御機能障害です。
しかし、当時の私には制御機能障害が何なのか、薬や漢方、整骨院やマッサージ以外に何をしたら良いのかがわかりませんでした。
私にすぐにできることは、学校への送りと栄養療法で、脳への栄養を切らさないこと。
もちろんこの時期にも、複数の大学病院で治療やカウンセリングを受けています。
パニック障害は近年の研究により、多くは心理的なものではなく、脳の機能障害として扱われるようになってきています。
脳内のノルアドレナリン系の核にあたる※青斑核におけるGABA系の制御機能障害で、予期しないパニック発作が繰り返し起こるものです。
1か月以上にわたりパニック発作について心配する不安障害に分類されています。
(※青斑核(せいはんかく)は、脳内ノルエピネフリン(ノルアドレナリン)生合成の基点。 青斑核は、大脳、視床、海馬、小脳、脊髄など中枢の主要なほとんどの脳領域に投射。 脳全体の機能の調節に関係しています。)
パニック障害も他精神疾患も、心療内科や精神科で処方される薬は応急処置であり、人間本来の働きに戻すということではなかったということです。
これは決して薬を否定しているわけではなく、私も娘も薬に頼りすぎていました。
薬があれば、無理がききました。
朝の満員電車を避け、車で送っていくことで毎日の登校も叶いました。
しかし無理を重ねた結果、キャパオーバーを引き起こしました。
徐々に声がかすれはじめ、声が出なくなり、高校1年の秋には失声症再発。
やっぱり無理をさせていたと分かっていても、絶対に留年したくないという本人の意思もあり、休学しない為にはどうしたらいいか?を話し合いました。(長女は声が出ないため筆談です。)
話し合いの結果、持ち歩き用の黒板を買い、学校で筆談するから良いとのこと。
自宅ではイエスかノーのみの返事の仕方として、
イエスは拍手を2回、ノーは1回と決めました。
可能な限り、イエスかノーで答えられる会話をするようにしました。
自閉症スペクトラム障害が基盤となり、幼少期から光や音への敏感さがあり、小2の時に将棋倒しの下敷きになり動けなくなることがあり、解離性健忘があり、失声症を再発させ、安定剤や睡眠薬を服用するのが常になっていきました。
(小学1〜3年生時代のブログhttps://counseling-amoretto.com/blog/1510/[)
私はこの頃考えていました。
違う。
何かが違うんじゃないのか?と。
薬を飲めば飲むほど眠りが浅く、朝の疲労度が強まっているように見えました。
そして、規定量の薬を飲んでも眠れず、薬の変更をしても眠れず、量を増やしてもらっても眠れず。
1週間ほとんど眠れなくなり
ついに
睡眠薬を大量摂取していました。
それほど眠りたいと願う長女がいました。
この時、私は私を責めたと同時に、投薬治療が根本的な解決ではないことにやっと気がつきました。
しかし、どこから始めて良いものか…
娘の17年と、次女の13年を振り返りました。
夫の人生と私の人生をを振り返りました。
いつも何か心配事があるたびに出てくる、夫と私の家系の気質がチラつきました。
そして私の娘達は、『生まれついての繊細さ、敏感さをもっているからこそ、人の心を完全に見抜く』ことを、様々な症状を出して教えてくれていたと分かるようになりました。
私自身が徹底して整わなければと、確信したこの時期。
心理学を学び、カウンセラー資格を複数取り、表面は整いました。
ですが、本心からというと簡単ではありませんでした。
それでも私の両親、義父母への細かな不満を※昇華させる必要性を感じていました。
(※昇華…心理学における昇華とは防御機能一つ。社会的に実現不可能な(反社会的な)目標や葛藤、満たすことができない欲求から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすることです)
当然のことでした。
私の父は娘達のおじいちゃんであり
私の母は娘達のおばあちゃんであり
義父母も同じく、その存在があったから娘達は存在しています。
その存在を否定することは、娘達も否定していることと同じ。
言葉に出さずとも、心の内にあるだけで表情や声色から読み取られます。
家族を、親族まで丸ごと愛する。
私にとって、大きな大きな試練でした。
約3年かけ、心理療法を自己適応し自分の中の試練と向かい合いました。
この頃、私が自分と向かい合う時間を取っておくことが、大学生で重度の副腎疲労になった長女の施術に集中する、大きな助けになってくれました。
失声症があると不憫に思われがちですが、長女は喋れないことで生きやすくなっているように見えました。
この頃の長女の晴れやかな表情を思い出します。
今になり分かることですが、発達障害をもつ子供の多くが体幹が弱く、神経学的な要因が関係しています。
神経系の発達の遅れや神経伝達物質の異常があることで、筋肉の発達や運動制御が十分に行われないことも原因の一つでした。
また、姿勢の制御が難しくなることで、猫背になり、呼吸器が圧迫され呼吸が浅くなり、自律神経の乱れを生じさせ、交感神経優位になっていたことも失声症の原因だろうとみています。
約1年、失声症の治療として言語聴覚士と行う発声練習、頚椎治療をしてくれる整骨院に通いました。
1年経った朝、おはようの声掛けに『おはよう』と返事をし、そこから徐々に回復していきましたが、喉の閉塞感は残ったままでした。
しかし当時は、これ以上なす術がありませんでした。
その後も声の出しにくさがあり、定期的に整骨院に通い、一時楽にしてもらえました。
が、通い続けることしかないことに不満を覚えてもいました。
長女は生まれ持ったミトコンドリアが弱かった、幼い頃から副腎疲労でした。
視力の弱い人がメガネやコンタクトレンズが必要なように、ミトコンドリアが弱い人はミトコンドリア活性するものが必要でした。
体の状態を知らないとは恐ろしいもので、動けると健康な人がしがちな無理のかかる生活をしてしまいます。
高校2年生の秋に声が出るようになってから、不安要素がありながらも通常と変わらず生活できましたが、3年の夏の体育祭の練習でギックリ腰。
これも副腎疲労からくるもので、体のメンテナンスができていなければ、頑張ることさえ難しいことを教えてくれていました。
この後、何とか高校生活を終え大学にも無事に合格し、やっと穏やかに大学生活を送れると思っていたこの時期。
このように、時折の穏やかな時間があるからこそ次の試練が訪れた時、人は頑張れるのだとも思うのです。
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